なでしこ

サイクリングのすすめ

この十数年、つい何気なく見てしまうテレビ番組があります。NHKの「にっぽん縦断 こころ旅」という、俳優の火野正平さんが自転車に乗って全国を旅する番組です。取り立てて面白い場面があるということではありませんが、旅の先々で出会う人々との触れ合いがほのぼのと感じられ、火野さんの飾らない人柄も魅力的で、いつの間にか惹きこまれていました。ロケ先が私たちの地元広島県や見覚えのある土地になると、なつかしく感じながら番組を楽しんでいました。ところが、先日その火野さんの訃報が届きました。驚くとともに、少なからずぽっかりと胸に穴が開いたような心持ちの今日この頃です。

自転車というのは便利な乗り物だと思います。自力でかなり遠くまで行けてしまいます。思えば年齢とともに自分の世界を広げてくれたのは自転車だったのかもしれません。子どもの頃は田舎育ちでしたので、友達の家に遊びに行くのはいつも自転車です。小学生の頃の行動範囲はごくせまい地域に限られていましたから、「あのカーブを曲がった向こうにはどんな景色が広がっているのだろう」などといつも想像していたものです。

中学時代は学校までの約4kmの道のりを自転車で通う毎日です。雨が降れば雨合羽を着て走ります。積雪の後の車道となると、圧雪の表面がつるつるに凍っていて、何度も転んでは、外れたチェーンを直しながら走ったものです。町内の端に住む友達の家に遊びに行くなどするうちに、だんだんと行動範囲は広がっていきました。中学2年生の秋には、友人3人で自転車に乗って遠出をしたことがあります。それは11月の中旬のことでした。それぞれ母親に弁当を作ってもらって、紅葉真っ盛りの帝釈峡へ出かけたのです。自宅から片道およそ40kmの行程なのですが、行きは登り坂が多く、特に中山峠という難所に苦しみました。計画好きの友人が細かく予定表を作ってくれたので、それにしたがって進んでいきましたが、今考えてみると、ネットも無い時代に、地図だけを頼りに計画を立ててくれた友人のリサーチ能力の高さに感心してしまいます。3人ともそんな遠出は初めてのことでした。道中の初めて見る景色に冒険気分も手伝ってわくわくしたものでした。登り坂に苦戦しながらも、何とかほぼ予定通りに目的地に着きました。そこでは、「どこから来たの?」と誰彼となく声をかけられ、答えるとちょっと驚かれることで、少々誇らしく感じていたように記憶しています。行きで登り坂が多かった分、帰り道は下り坂が延々と続きました。火野さんの名台詞ではありませんが、まさに「下り坂最高~!」という気分でした。

我々の世代は、誰もが同じようなことを経験していた時代だったのかもしれ ません。世界最高峰の自転車ロードレース「ツール・ド・フランス」に、日本 人として初めて出場した、広島県出身の今中大介氏も自転車好きの少年時代を 過ごしていたようです。今中さんが私たちと違っていたのは、自転車好きの精神を、大人になっても深化させていったところでしょう。高校までは陸上部だったのが、大学では自分で自転車サークルを立ち上げ、国体で優勝します。工学部の修士を修了後、自転車の強豪レーシングチームを持つ「シマノ」の社長に、ロードレーサーとしての能力とエンジニアの知識や技術を兼ね備えた人材であることを直談判して入社します。そして国内のロードレース大会での勝利を重ねた後、イタリアの名門プロチーム「ポルティ」に移籍。そしてついに「ツール・ド・フランス」への出場権を勝ち取りました。

今中さんは競技を引退後しばらく自転車に乗りたくない時期があったそうですが、しばらくして再び乗り始めたら、楽しくて仕方がなかったといいます。「自転車は、自由を与えてくれる乗り物ですね。ゆっくりサイクリングしてもいいし、本気になって鍛えるための走りをしてもいい。登り坂は足を緩めるわけにはいけないので、ずっと漕ぎ続けなければいけない。最初は辛かったりするんだけど、チャレンジして克服していく喜びを感じられる。自転車は小さな冒険をしている気分になれるし、そうやって色々なところを巡って、日々小さな人生の積み重ねをするような経験ができる。」

近年、そんな自転車の魅力にとりつかれる人々が増えています。特に新型コロナウィルスの流行下では、人ごみや密を避けることを余儀なくされたこともあり、キャンプなどとともにアウトドアで余暇を楽しむ人々が増加しました。特に中高年の方々を中心に、自転車に乗ることを趣味にされる方が周囲に増えているように感じます。知人などは、普段は福山周辺を走り、ときにはしまなみ海道で瀬戸内海を横断したり、琵琶湖や浜名湖を周遊したり。つい先日は茨城県まで遠征して、霞ケ浦を一周してきたとのこと。

自転車に乗っていると思っている以上に汗をかき、知らないうちにカロリーを消費しているのだそうです。基礎代謝が上がることで脂肪が燃えやすくなるので、サイクリストにはすらっとした体型の人が多いとのこと。またサイクリングは、運動することによって身体に直接的な衝撃が加わらないので、年配の方でも無理なく楽しく運動できます。身体的にも精神的にも、健康的なアクティビティだと思われます。火野さんのように、マイペースでかっこよく自転車を楽しんでみたいものです。

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