黄色いバラ

今必要なこと

今から十数年前、某中高一貫校の中学入試の国語に引用された文章です。

尾道市出身である筆者の少年時代の回想です。少年と母親との他愛のない会話の中で、母親が「あ、おしょう油がみてたね」と言います。漢字の書き取りをしていた少年は、「あれ、『みてた』ってどういう漢字を書くのだろう?」と疑問を持ち、母親にたずねます。母親は「これは方言だから、漢字があるのかしら。でも昔から使われてきた言葉だから、言葉を仮名と漢字であらわすことは当然だから、あるかもしれません。考えてみましょう。」と言って、しばらく考え、「きっと『潮が満ちる』の字を当てて、つまり『満てる』と書いて『みてる』と読むのではないかしら」と答えたのです。少年がその理由をたずねると、母親は尾道という町の海に寄りそった暮らしから生まれた文化を説明します。塩作りのこと、重要な潮待ちの港であったこと、大きな干満差に応じて作られた雁木のこと…、そして潮の干満に対比させて「おしょう油もびんの中で増えたり減ったりしますものね」と説明します。すると少年は、「でも、お母ちゃん、それは変だよ。もし『みてる』が潮の満ち引きの『満ちる』なら、びんの中のしょう油がなくなったのだから、『引く』じゃないの」 母親はまた考え直します。「それは、きっとこうよ。あなたは今おしょう油にばかり気をとられているから、そう考えたのね。おしょう油を何カ月も取り出して、おかずを美味しくしてご飯をいただくと、食べたものは栄養になり、私たちの体を丈夫にしてくれました。それで家族みんなが健康で幸せに暮らしてきました。実はそこで多くの『おしょう油さん、ありがとう』という気持ちを私たちは持ったはずです。目に見えるおしょう油は減りましたが、目に見えない、心の中の『ありがとう』という気持ちはいっぱいに『みてた』のです。」 母親は、人間の知恵がこの『みてる』という言葉を作り出したと説明したのです。一見、屁理屈のような論理にも聞こえますが、人間の知恵が受けつがれてきたことを子どもに切々と伝えようとしている姿に映ります。

この文章の筆者は、先頃亡くなられた映画監督 大林宣彦さんです。大林さんは、故郷尾道を舞台にした映画作品を数多く撮られたことで知られています。彼が尾道を愛し、映画作りにも尾道にこだわり続けた大きな理由の一つは、彼が少年時代から見てきた風景や人々から、昔から脈々と伝えてきた知恵や、人を気遣う心、物事の価値観を育まれたという気持ちが強かったからではないかと思われます。彼はエッセイの中で、日本の家屋のことを「木と紙の家」と呼びました。木と紙の家の中では、さまざまな音がもれ聞こえる環境であり、自然と家族どうしが気配で感じあって、おたがいの心を思いやったり、ゆずり合ったりしながら暮らしてきたといいます。言葉を交わさなくても、気配によって家族のきずながしっかりと作られ、保たれてきたというのです。一方で、戦後海外から伝わってきた鉄筋コンクリートの家を「科学文明の家」として、あこがれたものであったといいます。しかし、鉄筋コンクリートの家は壁が厚く防音効果が高いことから、気配のない建物であるというのです。そんな気配のない建物に、気配で生きる、言葉を交わさない民族が住んでしまったら、コミュニケーションが取れず、引きこもりや閉じこもりが増えて、社会がバラバラになっていくのではないかと懸念されていました。

また鉄筋コンクリートの家が、スクラップ・アンド・ビルドにより、経済的な損得勘定だけで壊されていくような世の中を危惧されていました。そこには知恵も工夫もないからです。そして彼が晩年映画作りに込めたのが、平和への思いです。映画の力で世界の戦争をなくそうというメッセージを繰り返し発信していたとのこと。

今世界は新型コロナウィルスの流行によって、あらゆることが異常な状況です。私たちの学習塾の授業もオンラインの活用が余儀なくされています。オンライン授業というのも、やってみて初めて気づくメリットやデメリットがあります。しかし当然のことながら、同じ空間で眼の前にいる生徒の表情を見ながらおたがいにやり取りする授業が一番であるということを、あらためて認識させられます。

今回のコロナ禍の中、教育界ではICT(情報通信技術)ツールの拡充がいっそう叫ばれています。地元広島県や福山市でも前倒し的にタブレット端末の導入などハード面の整備を急いでいます。その一方で、そのようなツールを持たせて、何をやりたいのか、どのように利用して、子どもたちのどのような能力を開発していこうとしているのかといった目的意識や、ソフト面の拡充、扱う側の意識が今ひとつ明確になっていないように思われます。確かに学校に通えないような事態では、オンラインで教師と生徒・児童をつないで学習に役立てることができます。しかしながら、ICT環境を整えるだけでは子どもたちの教育環境を充実させるということになりません。できることはたくさんあり、さまざまな教育の可能性を広げることになります。しっかりと戦略性のある運用が期待されます。

太古の昔より人類は経験から生まれた知恵を蓄積し、伝え、発展させることによって文明を進化させてきました。それを効率的に引き継ぐために分野分けして体系化したものを学問と呼び、そしてその知識や技能を身につけさせることを教育と呼んでいます。人類の長い歴史からすれば、学校などはつい最近できたばかりのものだといえます。とすれば、日常すべてが学びの場であるといえるでしょう。前述のような大林さんの話を思い出すたびに、日常生活のあらゆるところが、新しい発見のある学びの場となる必要性を感じずにはおれません。今のような危機的で混沌としたときこそ、日常から学ぶ力が求められているような気がします。そして早く子どもたちの普通の日常が取り戻せることを願っています。

赤いバラのアーチアップ