天神社階段

挑戦とは

明けましておめでとうございます。今年は4月で平成が終わり、5月より新しい元号が始まります。新しい時代の幕開けに合わせ、何か新しいことに挑戦してみるというのはいかがでしょうか。人生というのは、新しいことへのチャレンジの積み重ねともいえるかもしれません。

チャレンジという言葉ですぐに連想するのが、冒険家でプロスキーヤーの三浦雄一郎さんです。今月、南米大陸最高峰アコンカグア(6961m)の登頂とスキー滑降に挑むといいます。これまでも数々の冒険に成功してきた三浦さんですが、86歳にして再び大きな挑戦に彼を駆り立てるものは何なのでしょうか。

三浦さんのプロフィールを調べてみると、まさにチャレンジの連続です。幼少期は病弱で劣等生。幼稚園は中退。小学4・5年生の頃には結核・肋膜炎を患い、半年近く入院生活を経験。公務員であったお父さんの仕事の転勤で小学校は5回転校。旧制中学校への入試に失敗して小学生浪人。入学後も4回の転校を繰り返します。スキーには小学校低学年の頃出会い、高校時代には全日本スキー選手権大会の滑降で入賞したり、青森県高等学校スキー大会で3年連続個人優勝するなどし、頭角を現します。大学進学もスキーができるからという理由で北海道大学を選び、入試直前も「もう来られないかもしれない」と考え、スキー三昧だったといいますから、どれほどスキーにのめり込んでいたのかがうかがえます。それにもかかわらず、獣医学部に合格した彼は、大学院まで進学します。アメリカ留学を希望していましたが肺の病気を患って断念。しばらくは北大農事試験場で獣医師として勤務。26歳で獣医師を辞めてスキーに挑戦するも、優勝した全日本スキー選手権青森県予選で、スキー連盟関係者と対立してアマチュアスキー界から永久追放されてしまいます。普通の人ならばここでスキーとは縁が切れてしまうところでしょうが、三浦さんは違いました。1960年代に入ってスキー学校を開設し、アメリカで始まったばかりの世界プロスキー選手権に出場して8位になるなど、ここからはプロスキーヤーとしてのキャリアを重ねていきます。1964年、イタリアのキロメーターランセで172km/hを出し、当時の世界新記録を樹立。1966年、富士山での直滑降成功。1970年、エベレスト・サウスコル8000m地点からの滑降に成功し、その記録映画「THE MAN WHO SKIED DOWN EVEREST」はアカデミー賞を受賞。その後も数々の挑戦を成功させ、1985年、54歳で南アメリカ最高峰アコンカグアからの滑降を成功させたことで、世界7大陸最高峰全峰からの滑降成功という偉業を成し遂げました。

しかし、その後は目標を失い、不摂生から身長164cmながら体重が85kgを超え、血圧は200近くまで上昇し、不整脈まで出るという不健康な状態になってしまいます。ところがその後、99歳にしてなおモンブラン氷河の滑降に挑戦する実父や、オリンピックに出場した次男の姿に刺激され、70歳でエベレスト(8848m)に登頂するという目標を立てます。外出時には常に足におもりを付け、20kg近いリュックを背負うという常人では考えられないようなハードなトレーニングを始め、2003年には70歳7か月で世界最高峰エベレスト登頂を果たし、当時の世界最高齢での記録としてギネスブックに掲載されました。そして2008年75歳でエベレスト再登頂。しかし、翌年に骨盤と大腿骨を骨折し、2012年11月と2013年1月の2度にわたる心臓手術を受けるという逆境を越え、2013年には80歳で3度目のエベレスト登頂に成功します。

三浦さんの冒険は、スキーや登山だけではありませんでした。落選に終わりましたが、北海道知事選や参議院議員選挙に出馬するなど政界にも挑戦しました。2005年からは全国森林レクリエーション協会の会長に就任しています。

そしてもう一つ彼のライフワークとなっている仕事が、広域通信制高校クラーク記念国際高等学校の1992年開校以来の校長です。三浦さんは生徒たちに語りかけています。「あきらめずに一歩ずつ進んでいけば、夢は叶う。君にしかできないことが、きっとあるはず。そんなオンリーワンを目指して歩いて行こう。」

彼のこれまでの歩みは、決して順風満帆とはいいがたいものです。しかしながら、逆境を乗り越える度に自信となり、信念を持って歩んでこられたのではないでしょうか。自分のやりたいことを夢中になって追い求めることは、何よりも大きな原動力になるはずです。彼の86歳にしてなおアグレッシブに挑戦する姿は、日常のこまごまとしたことにくよくよしている自分の小ささに気付かせてくれます。ちっぽけなことを言い訳に前に進まない自分を叱咤激励してくれているようにも思われます。今年は亥年だけに、少々猪突猛進くらいの勢いで行くのも良いかもしれません。

鉄人28号