手がメモ帳?!
授業中ある生徒に問題の答えをたずね、不正解だったときのことです。次の瞬間「じゃぁ○○!」即座に別の答えを言います。前もって用意していたかのように、です。その答えも間違えだとわかると「じゃぁ△△」とさらに別の答えが飛び出します。「おいおい、ちょっと待って。よく考えてから答えてね…」(苦笑)。実はしばしば見られる場面です。間違えた後に出てきた答えが、最初の答えと迷った末に選択肢から除いたものだったのかどうかは不明ですが、このような生徒は答えを出すことが最優先で、「なぜそのような答えになるのか」という理屈は二の次のように見えてしまいます。
1月は小中学生の全クラスで学力テストを行いましたが、毎回学力テスト後の授業では、テスト問題の解説と復習をします。そこで生徒たちの問題用紙を見て愕然としてしまうことがあります。配布前の問題用紙かと見間違うほどきれいな問題用紙 見返したときすぐに、考え方のプロセスや根拠がわからないようではいけません。容易に解けない問題でも、問題文の情報を書き出して整理したり、図示したりする中で、気付きが出てきたり、考えを進めることができるものです。ちょっと見ただけで頭の中で解ける問題というのは、学年が進むにつれて少なくなっていきます。理屈を積み重ねるような勉強をしなければ、発展的な学習は不可能です。
何事にもミスや失敗はつきものです。だからこそ大切なのは間違えたその後です。ややもすると「間違っちゃった」「この科目不得意だから仕方ないか」くらいで、やりっ放しになってしまいがちです。「正解したから良かった」「不正解で残念」で終わったのでは意味がありません。間違えた問題を「正解を得るにはどのように考えれば良かったのだろう」という思いでていねいに見直さなければ進歩はありません。今教育界に求められているのは、基本的な知識・技能を基盤にして論理的に考え、実際の場面に応じて発揮できる力を培うことです。そのような血となり肉となる真の学力を獲得するためには、一にも二にも自分の頭で根気よく考え抜くことです。
昨年ノーベル化学賞を受賞された吉野彰さんのお話は、大変示唆に富んでいます。リチウムイオン電池を生み出すという研究を成功させた秘けつの一つは「粘り強さ」だといいます。「これは絶対必要だと思います。いわゆる壁にぶつかっても、何度も何度も耐えていくという、そういう一つの執着心でしょうかね。これは絶対要るんですよね。」そして「失敗しないと絶対に成功はない。」と説きます。どんな分野の成功者も言うことですが、特にものの開発というのは失敗することの方が断然多いわけですから、そこでくじけたり投げ出したりしたのでは、何も新しいものは生まれるはずがありません。失敗から学んで改良していかなければ成功は成し得ないわけです。
さて話を授業に戻します。板書しながら問題解説をしているとき、ふと生徒たちを見て気付くことがあります。ぼーっと見ているだけの生徒がいます。以前からそのような生徒はいるわけですが、最近は増えているように感じます。板書は、仕組みやつながり、流れを説明するためだったり、重要語句であったり、様々な生徒へのメッセージであるわけです。全てを書き取る必要はありませんが、自分がわかっていないことや残しておきたいことは必要に応じてノートをとるべきです。もちろん書き取るように指示をすればできるわけですが、話を聞きながら同時にノートをとったりテキストに書きこんだりすることが、自然にできない生徒が多くなってきているように感じるのです。私たちの学生時代に比べ、現在の方が学校の先生にノートを提出する頻度も断然高くなっているはずなのですが、どうも成績表で一定の評価を得ることが目的の「提出するためのノート」作りばかりで、本当の意味で「自分の勉強に役立つノート」を作ることがなくなってきているのかもしれません。
また、授業中に生徒の手の甲を見ると、タトゥーでも入れたのかと思うほどの模様 いえいえ、よく見るとサインペンで書いた文字です。たずねてみると、「忘れちゃいけないから、手にメモってるんです。」 なるほど確かに忘れないかもしれないとも思うのですが…。以前ならば、忘れ物の常習犯が半分罰ゲームとして先生に書かされていたものですが、今では男女を問わず自ら書いているようです。メモ帳に書く習慣というのはないのでしょうか。授業の最後に宿題を伝える際にも、必ずメモ帳に書くように指導しますが、生徒たちは付箋を使いたがります。しかし、付箋ははがれたらもうわからなくなりますし、複数のテキストから課題を出したり、プリント類を渡したりする場合もあるわけです。メモ帳に書いておけば、授業ごとの課題が一目瞭然になるはずです。「宿題がわからなかった」などという言い訳も要りません。他の課題や日程をふまえて予定を立てることができ、計画的に行動できるようになります。
国立情報学研究所教授であり「教育のための科学研究所」の代表理事・所長も務める新井紀子さんによれば、今の子どもの多くは、中学生になってもノートがとれないといいます。板書を写そうとすると、写すことに「認知負荷」がかかり過ぎて、先生の話が聞けない状態になってしまうというのです。本来ならば小学校3・4年生くらいまでに、先生の話を聞きながらノートをとれるようになることが望ましいとのこと。私たちが目の当たりにしていることは、特別なことではなかったのだと妙に納得させられてしまいます。
世はAIを搭載した最新機器が花盛りです。音声入力で家電機器を操作できたり、自宅に居ながらネットショッピングが楽しめたりします。遠出をしようと思えば、乗り物の乗り換え時刻や所要時間、料金をふまえた最善策が一瞬でわかり、チケット予約もスマホでできます。キャッシュレス決済の普及により、現金を持ち歩かず、予算やおつりの細かい計算も不要になりつつあります。教育界も例にもれず、AIを駆使したICT機器が競うように開発されています。そんな豊かで便利な生活をもたらしてくれる技術革新の恩恵を享受する一方で、人の能力が退化することが懸念されます。子どもたちを見ていると能力の変化は顕著です。基本的な加減乗除の計算、時刻の計算、度量衡の感覚と単位換算、割合の感覚、根気強く長い文章を読む力、人の話を聞く力、・・・私たちの世代にとってこれらはみな机上だけの勉強ではなく、日常生活に密接に結びついていて、実感しながら反復することで自然と獲得した力ばかりのような気がします。子どもたちが学習したことを、普段の生活の中でトレーニングできるような環境づくりをしたいものです。